昭和41年07月28日 夜の御理解



  (途中末尾切れ)
 「神の綱が切れたというが、神からは切らぬ、氏子から切るな」と仰る。「神の綱が切れたというが、神からは切らぬ氏子から切るな」と。私共がどのような場合、どのようなふうにして、神様に疎遠になったり神様のおかげの綱というものが切っておるか、取り外しておるかということをよく分からなきゃいけないと思うんですね。自分の心の中にしこる一つの信仰的感動というものが、まあ沸かない時にはですね、もう言わば神の綱が切れておるのです、もういや自分から切っておるのです、ね。
 信心しておってですよ、ならそれでもおかげは受けますよね、感動がなくても喜びがなくても、お取次の徳によって、おかげを頂くんですけれども、ただそれだけで腰掛けて、べんべんとしておると、言う様なことじゃダメだと私は思うです、ね。信仰さして頂けば信仰さして頂くで、信仰を頂いておる有難さというものが、何かの形によってその感動が。先程も私の2番目の娘が申しておりましたけれど。
 朝晩の清掃をさしてもらう、お掃除さして頂く、もうそれが一生懸命で真心でさして頂く時には、本当に一週間じゃあるけれども、そのお掃除さして頂いておることが有り難いなあとこう思う。そんならまた明日のお掃除が、また次のお掃除が楽しゅうらろうがと言うたら、いやそれが楽しゅうなるほどの有り難いことはないって言う。だからその楽しさが有難うなりゃあですね、本当にお掃除さして頂くことが、言わばお掃除そのものがもう修行だということなんですね。
 お掃除そのものが、神様が喜んで受けて下さっておるんだという、その感動が伝わってくる。もうそれもほんなちょっぴりだけれども、まぁ感ずる所です。ですからそれがまぁそのちょっぴりが段々こう通う様になれば、いわゆるお掃除の楽しみというものが出て来るだろうと私は思うんです。先程ですもん私だんもう家族の輪が2人か3人通えりゃもう必ず信心話です。
 まぁそして本当にもう私はもう細かい(?)でん何でん私、お父さんはどこを改まったらええかのっち、お父さんな、どこがいかん所があるかっちゅうふうに私は聞くんです、もう形の上ででも子供達が気が付いているようなこと、お父さんあげなことと思うようなことをです、忌憚なく話せるような雰囲気をつくるんですね。やはりあの、いつもこれでよいということはないのですから、ですから私この頃、私の一番下の子供ですけれど、この頃、もう黒んぼ大会に一等にならにゃんならんちゅうので。
 もうそれこそ、もう朝から晩まで泳ぎに行きよるわけです。もう本当に裏表やら分からんごと黒くなっとるです。だからね、ちっと白うなる稽古をしなさいって、まぁもう黒んぼ大会に一等になることいらんから、ね、少し白うなる稽古をさしてもろうて、家で勉強でもしなきゃ、ほんなあんた通信簿で下がとってしもっとろうがと。だからあんた、どうのことじゃ夏休みが始まってから、毎年子供達は子供達なりに寄ってから、いろんな教義をしてるらしいんですね。
 朝何時に起きて何時間勉強して、何時間遊んでと言う風なその事を、今年はそういうまあだ計画を立てていないらしいんですよ。で、今年はどう言う訳で立てんのかと私が申しましたら、栄四郎が言うわけですね、今度の先生はね、僕達夏休みの時に自分で計画を立ててからね、その計画を実行しきらんごとなら、もうせんがよかって言いなさったげな。だから僕はせんちこういうわけ。ほほうなるほどこういう考え方があるばいと、しかしその栄四郎君、それは本当に僕はそげん思うとかって。
 こう考えたらいんやそれでも、やっぱせにゃいかんと思うとるけれどもですね、そんならその口実を言う訳なんです、ね。実行のできない事なら初めからせんがよかぞと、言うて先生から言われておったから、僕はもうせんとこう言う訳なんですね。けれども私信心さして頂いとる者が、そう言う様な事がありゃせんだろうか。信心の上でそう言う様な事になる時です、いわゆる神の綱が切れた時なんです、ね。
 「言い訳にならぬ言い訳をして神から離れる氏子がある」これは私が頂いておる御教え。言い訳にならぬ言い訳をして、もう神様の前には実を言うたら言い訳は立たんのです、ね。ですから言い訳にならぬ言い訳をして神から離れるわけ。もう離れておる。離れていきよるといつの間にかぷつっと切れるんです、ね。そして、あぁ神の綱が切れたとこう言う様な思い方をするんです。神からは切らん氏子から切るなと。
 今日、久富勇さん達一回親子3人で朝から、朝の御祈念にお参りされて、それからそん時お届けがあっとりました。丁度今度31日がこの信徒全員が、もうそれこそ老いも若きも一日、合楽の現場に集まって除草の、草取りの御用を頂こうということに話が決定致しまして、もう案内なんかまぁあっちこっち配らして頂いておる訳なんでございますけれども、もう大祭なんです。
 それでもう皆で、全員でおかげ頂こうとこういう、まぁ執行のもとにです、今度31日それでなされるわけなんです。ところが今日、いさむさん朝の御祈念に参ってみえてからです、先生どうぞこの31日が亡くなりました母の1年忌を勤めねばなりません。それでどうしても私共夫婦が御用頂かれませんから、今日幸いに、家内もそれができますから、親子3人連れで現場に除草のおかげを頂きたいと思いますから、どうぞよろしくお願いしますという事であった。
 本当言うたら言い訳はならんのだけれども、まぁそこは私共の場合、人間的な意味でもう本当に、その神様に言い訳になるんだけども相すまぬだけれども、相すまんのだけれども、やはりご無礼しなければならないことがあるでしょうが、ね。神様、言い訳になりますけども、実はこんな訳でございますから、私共が夫婦おらん訳には参りません、でその前日にでもなら除草のおかげを、代わりに頂こうというので今日は終日、ほらもうそれこそプロですからね、お百姓さんですから、まあ畑の多いとこですから。
 もう本当にその草取りの十年かかっても、出来ない様な事が恐らくまぁ出来とるのじゃなかろうかと私は思います。今日一日親子3人かかられたんですから。仕事のその量じゃないけれどもです、ね。私共その、例えば言い訳でもして、神様から離れなければならないような時です、少しでも、ね。言い訳にならぬ言い訳をして、神から離れる氏子があると仰るがそういう時にもです、私共はそのお詫びのしるしにと言った様な、そういうものがまた神様と接近を頂くことの出来れる。
 これはひとつの、そう言う様な場合のひとつのまぁ手段なんですね。神様はいつも身近に頂いておくために、こんなことでは相済まんのだども、ね、そのことのお詫びの印にと、今日は親子3人がこの炎天の中にですね、終日、草取りの御用を頂いておられます。大概の者がですね、実はまたその日はこんなふうで親の法事を仕えますから、本当ご無礼してすみません、もうこれだけでしょうね、普通だったら。
 だからまぁそれも、ああそうですか、それはまた大事なことでしょうと、私も言うでしょうね。けれどもことそれが、それが信心になる時です、こげなことで神様から離れちゃあならん、これじゃあ日頃頂いておるおかげに対して相済まんと、思う時にやはりその前日にでも出て来なければおられんのであると。そこにです、詫びのしるしにと言った様なものがです、信心には私は必要じゃないかと思うですね。
 私もここんところがですね、ここんところを頂けなかったら、先程から申しますように、ね、いわゆる信仰的その感動というものがですね、頂けないと思う。これはもう何十年ここにひたっておってもです、この信仰的感動がなかったら信心の値打ちはないって、ね、おかげを頂くためにはお役に立つかもしれんけどもです、それでは信心を頂くための値打ちには、ひとつもなっていきよらないということ、ね。
 本当にこの、その信仰的なですね、感動というものが、私共の心の中にいつもなからんとですね、自分のおかげが受けられんが、人にも与えることはできません。今朝から善導寺の原さんが、御祈念中に出られておられました。本当に今朝の御理解の内容をもっと具体的に、しかも端的に、もうそのものずばりに頂いておられるんです。素晴らしいことだなあとこう思うんですね。今朝の御理解はですね、私は時々思う。ここ2,3日特にそれを感じる、ね。
 本当に、まあもうここでは本当にこの人が、おかげの頂けん筈はないというごとあるです、私の前では。ところが家に帰ったら、その奥さんから聞くともう家の主人は、また家の家内は、また隣近所の人から聞くとです、もうあげな人が椛目に参りなさるけんで、私は参らんち言いよるもんが、近所にございますちゅうような話を聞くとですたい、もう本当にがっかりするわけです、私としても、ね。そして、私が思います、成程それじゃあおかげが受けられん筈だと言う事なんです、ね。
 と言うてなら三か二重人格かというとそうじゃない、やはり椛目に来るとどういう人でも、一応は有難うならしてもろうたり、やはり私の前ではにこやかにしなければ、おられないものが何かがあるのだと、ね。だから決して私はその人を責めるのじゃない、二重人格じゃない、もう家のお父さんばっかりは、二重人格のごたるですよという、例えば家内があるです。ですからもう、それに触れた時、もうがっかり、それこそ100年の恋も一遍に冷めてしまうとこういう。
 ところが(ここにあけてもほんに?)、人の真似んできんごたる信心ができなさる、どういうわけじゃろうかっちこういう。成程それじゃあおかげの頂けない筈だなあとこう思うわけです、私が、ね。そしてその人は二重人格じゃあない、椛目では何気なしそういうような、いわゆる和賀心を、和らぎ賀ぶ心を頂けておれれるんだと。だからそれをそのままです、そのまま自分の家にも持って帰り、ね。
 やはり自分の職場にも持って帰れれる、そこんところに焦点を置かして頂いたら、おかげが受けられるであろうと、言う様な御理解だった。だから今度、今日はぎりぎりそこんところに焦点を置こうじゃないかと、ね。だから言うならばですもういつも、ここはお広前だとこう思やいいのです、ね。誰に接する場合でも、ああ親先生に接しておると思うたらいいのです、ね。
 そしてなら胸に手を置いてみてお互いがです、成程本当に脇から見たら二重人格にも三重人格にも見えるだろうと、思われるような自分を発見した時です、これではならんということをひとつおかげ頂かにゃあならん、ね。そげんところに言わば神と言わば、仲良うする信心ではなくてです、ね、神様から向こうに押し離す、なさるじゃないばってん、こっちが神様を(とわのいたもの?)にしてしまっておるということなんです。それをなら御理解を頂いておってでした、原さんがここで言われるのです。
 今朝からちょうど、椛目の総代さん方が、高芝さんを先頭にお届けをしておられます。ああそんなら昨日丁度総代会がありましたもんね、ですから総代会のことでしょうっち。それが先生、私はもう本当に総代会ばってん、きちっとここに並んでお届けなさっておられるから、まぁ言うなら厳粛な方です姿は。ところが御神前のですね、あの御簾がスルスルっと下りてくる。いわゆるシャットアウトです神様が、ね。
 いかに例えばです、今日は総代会でこういう素晴らしいことを決意致しましたと言うてもです、もしそれが空のようなことであったらです、真心もなからなければ熱意もなかったらです、ね、神様がこれをお受けになさる筈はないから、神の綱がそれはもう切れておるも同じ事だと。もう神様が御簾を下げござると言う事です。これは本当、これはそれだけのことじゃございますまいけれども、ね。お互いが本当にそう言う様な空ろなような、ね、形ばかりのようなお届けでは神様が受けよんなさる筈はない。
 このお届けなら神様が必ず聞いて下さると。このお届けなら神様が必ず受けて下さるというような内容でなからなければいけないということ、ね。次に頂いておられる。ここに、小野という産婦人科の先生です、もうこれこそ参って来るとだけは、もう毎日これこそもう十何年間も日参しておられる。またもうお願いちゅったらもう、この人はもうそれこそ、メスを握る時にはまずお取次ぎ頂かなければメスは握らんというぐらいに、まぁ言うなら熱心は熱心ばってん、非常に慌てんぼうです。
 もう御理解はして、よう頂こうとしない。まぁそういうその、まぁ言わばものが持っておられるんです。もう誰か人がおろうがおるまいが私がどこにおろうが、先生こんなわけですからお願いしますと。もう電話であろうがどうであろうがです、そんなふうな、やはり方なんですけれど、もう根は大変、それこそ上等な人ですこの先生。ですけどやはりおかげは非常によく頂きます、ね。
 その願うたことに対するおかげはね。けれども全体的な本当の、ここだけはこれはと言う様なおかげには、しかしこの人の場合にもなっていきよらない気が致しますですね。やっぱりおかげを頂くのではなくて、信心を頂かなければダメだ、どんなに医者であろうが学者であろうがです、やはり信心を自分の身につけていかなければ、そらもう、子供のように、本当に無学の者のように純真な方なんです、この方は。
 ですからもう、本当にもう坦々として、どげなんこつでんお願いされるわけですね。いやだからおかげは受けられるです、純真さでまぁおかげを受けていかれるけれども、信心は受けておられないような感じです。もうそんな方です。その方が原さんの心眼の中にですね。私がまだ奉仕着をつけるまで、奉仕着をつけようとしておる時に、何か大事なことをお取次ぎを願っておられるというところであった。
 ところが何とですね、水道がこう水道管がこう、それが私を通して、こちらの蛇口があると言う様なとこを頂かれた、ね。なるほどおかげは私がね、どこにおろうが風呂場におろうが便所におろうが、お取次ぎをさして頂いたら、確かに心の中に水道が通っておるのであるから、ここからお恵みの水は頂けれるのだということ。それはまだいろいろヒントがあり、私じゃなくて皆さんがここんところが分からなきゃならんことが沢山あろうと思うんですけれどもです、ね。
 例えばなら今朝の御理解の中にもです、本当に椛目ではこういう素晴らしい働きと、力がこういっぱいあるのだと。おかげの受けられんことはないというのです。それをおかげを受けられんのは、二重人格的なあり方になっておらんかというのが、今朝の御理解だった。どういう力があるかと。昨日ですね、ちょうど5時頃だったでしょうか、この下駄箱の裏に、大きな自家用車が居眠り運転して、もうそれもスピードでやってきよってから、このここにぶつかったんです。
 大きな音がしました、ね。それがですね、もうその反動ちゃあ恐ろしいです、これにぶつかっといてです、だから下駄箱がこっちさ、こうやって押しやられるぐらいにあるです。あの頑丈に、中に大きな芯が入っとってですよ。そしてあの板が貼ってあるのに、こちらへ出てきた。もう本当一歩向こうであったら向こうの田中さんの家なら潰れるとこであられたっち。ちょっと後ろの方であったらあのガードを突き破って、庭の中飛び込んだじゃろう。ほんなそこんところです、下駄箱の横んところ。
 あの銅版へぶつかって。そのぶつかったところのぼんと斜めに向こうさに行った。ほれであなたもう、しかもあそこで私旗ざおを置いとりますもんですから、旗ざおがこう高い所に隅の方にこう置いてあるから、丁度これが橋のようになってです、もう即相撲の様にそれこそ、川の中に飛び込んでおるです。もう川の中にこうざぶとんひいて見て座ったごたるふうな格好で落ち込んどりました、本当にきちっと。
 だからもうそれこそ、もうかすり傷ひとつしておりません。どうでしょうあの6時のラッシュ時ですから、もうとにかくもう車のあの絶え間ない時でしょうが。けどもよう向こうさ斜めに走る時に、どっちからも来ござったことだと私は思います、本当に、ね。私はそのことを神様にすぐにですね、お届けさして頂きました。そしたら今朝方まであそこに玄関にお花がありましたけれど、ね。
 ここにお花ひとつでも皆さんの真心で集まってくるものはみんな、神ながらだということを感ずるのですけれど、今の赤い大きな鬼百合という、百合が入れてあります。それにあの(ほそずぎ?)ですね、すすぎの穂です。あれが2、3本それにあしらってございました。それを御心眼に頂きますもんね。私はそれを思うてから、最近、次々とまあ10回にわたってもう本当に椛目の
  (途中末尾切れ)